わたし的発見の『安川』を川沿いに散策する事にしました。
あまり整備されていない川沿いを自転車で走り続けると、
樹齢約420年の天然記念物を見ることができました。
985年に「恵空」が阿弥陀寺を建てたのが始まりと言われています。のち武田信宗の菩提所となり
光賢寺と称し栄えました。その後、現在地に移り、正伝寺と改められました。下記参照しました。
<安佐南区役所 市民部 地域起こし推進課 am-chiiki@city.hiroshima.lg.jp>
武田信宗ってだれ?
武田山に銀山城(かなやまじょう)を築いた人。武田氏はもともと甲斐国(山梨県)の武士ですが、
安芸国と関係を持つようになるのは、承久の乱(1221年)で手柄をたてた信光が、安芸国守護職に
任命されてからです。武田氏は最初、代理を派遣して統治していましたが、元寇(げんこう)の
あった文永11年(1274年)に、信光の孫、信時が安芸国に下ってここに住むようになり、
以来およそ三百年間、安芸地方の支配にかかわってきました。
銀山城を築いたのは、信時の孫、信宗と伝えられています。
銀山城って ?
標高410.9mの武田山全山にわたるこの城は、守りの固い名城とされ、五十近くの郭があり、
安芸国内の中世山城としては、郡山城(安芸高田市吉田町)と並ぶ最大級のもの「銀山城跡」
として広島県指定史跡。武田山いこいの森となっている。
ジェット広島本社の所在地、千足の地名の由来?
安芸武田氏は、天文年間、十代光和の頃、出雲の尼子氏と結んで大内氏に反抗していました。
毛利元就は大内義隆の命を受けてこの銀山城を攻撃しました。
光和の死後、内紛などもあって武田氏の勢力は衰えていましたが、
銀山城は標高410.9メートルの天険を誇る山城で、数年続く毛利方の攻撃にも難攻不落でした。
そこで元就は策略をめぐらしました。農民を動員して千足のわらじを作り、夜になると、
そのわらじに油をしみ込ませて火をつけ、城の大手側を流れる太田川に投げ込み、
おとり作戦を演じました。はるか銀山城中からこれを見下ろすと、あたかも寄手の大軍が河を
渡って大夜襲をかけるさまに見え、武田方は急いで全兵力を大手側に集中して防備を固めました。
ところが、毛利方は敵の裏をかき、搦手(からめて)の旧安古市町側から一気に攻め登り、
ついに銀山城の攻略に成功しました。
時に天文10年(1541年)5月、安芸の武田氏はここに滅亡しました。
この伝承を物語るように、広島市東区戸坂町の太田川の川岸には、
千足の地名が現在も残っています。(「日本城郭体系 第13巻」より)
『安川』を川沿いは武田氏ゆかりの寺もありました。
古くから武田氏と関係があり、武田信光が円妙院(後の光明寺)をもって鬼門鎮護の道場として崇敬したという記録が地方の諸伝に残されています。
武田信隆寄進のわに口をはじめ、数々の重宝が伝えられています。
散策の結果、思わず広島の歴史に触れることができました。
承久の乱(1221年)と言えば、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて
敗れた兵乱です。大河ドラマの主人公 北条義時まで及ぶとは思いませんでした。
千足の地名はムカデの脚かと思っていましたが、武田氏の滅亡の歴史が関わっていたことを知り、
新たなわたし的発見の意欲が湧いてきました。
令和4年4月
〈学参デザイン・組版・イラストのクリエイター〉
有限会社ジェット 廣田 久美子